「自転車泥棒」息子ブルーノからみた父親

橋の上を走る自転車 ドラマ
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古典的名作としてかならず名前が挙がってくるのが本作「自転車泥棒」です。とてもよく知られた作品で、今回改めて見て、なんともいえない悲哀を感じました。

市役所のポスター貼りの仕事を手に入れた主人公・アントニオだが、仕事には自転車が必須。なんとか準備して意気揚々と仕事を始めたのもつかの間、ちょっとのスキをついて自転車を盗まれてしまう。幼い息子を連れて、町中を探し回る羽目になり・・・。といったあらすじです。

1台の自転車をめぐって、映画の最初と最後では、父と子の関係が大きく変わってしまいます。

「自転車泥棒」

監督:ヴィットリオ・デ・シーカ

出演: ランベルト・マジョラーニ/ エンツォ・スタヨーラ

製作年:1948年

製作国:イタリア

貧しさという時代

・・・自転車1台盗まれたばっかりに大変ですね。いまならお金出して新しいのを買うか、となるところですが、そんな余裕のある時代じゃない。

映画の中の世界は、第二次世界大戦後まもなく。家族のために仕事を続けるにはなんとしてでも自転車が必要なのに、盗まれたせいでずいぶんな苦労をすることになります。

幼い息子と一緒に市場で盗品自転車が売られていないか探してみたり、占い師に聞いてみたり・・・。

最後には追い詰められた心理から、アントニオはついにある行動をとってしまいます。その行動にいたるまでの感情の動きが、街角の風景に重ねられつつ細やかに描写されているため、非常な迫真性を感じさせます。

「他人事の悪事」ではなく、私はまさに自分の身に起こったことのように受けとめてしまいました。

貧しさからくる、自分と他者と比較してしまう心理が映画の随所に見られて、興味深い。

たとえば親子で高級なレストランに入って、食事をするシーン。他のテーブルでは豪華な食事をとっているのが気になって、つい見てしまう息子のブルーノ。他のテーブルの子を真似してチーズをながーく伸ばすシーンなど、ちょっと見栄(?)をはってしまう描写が細やかでいい。

貧しさのなかで生きる人たちの日常のドラマであり、観ている側が自分と地続きのように受け止める、そんな力があります。

社会のなかにある個人の小ささ

本作で最も印象的なのは最後のシーンでしょう。

仕事をしてお金を得るには、自転車がどうしてもいる・・・・そんな父親の目の前を何台もの自転車が走り過ぎ去っていくシーンは、じりじり追い詰められる気持ちをかきたてられるようで、インパクトがあります。

「世の中にはこんなにたくさんの自転車があるのに、なんで俺には1台もないのか」とでも言いたいような父親の表情が、苦悩の深さを思わせます。

でも、自転車の窃盗なんて、世の中のごくありふれた小さな事件の一つに過ぎないのもまた事実。

主人公はこれ以上ないほど追い詰められ、悩んでいるのに、社会の中においては取るに足りない小さな出来事に過ぎない、という事実を突きつけられます。

ストーリーはごくシンプルで、自転車を盗まれた親子が、街中を探し回るというだけの内容です。にもかかわらず、これほど見ているものの胸を打つ、というドラマになっています。

息子ブルーノにとっての父親

まだ幼い息子であるブルーノにとって、父親の姿は憧れや頼りになる存在であってほしいもの。

でも、最後に自転車に乗って町を走る父親の姿は、ロングショットで小さく撮られています。

息子にとっての父親の存在の大きさと、現実社会ではしょせん取るに足らない存在でしかない人物という比較の冷徹さ。

自転車に乗って走る父親の姿を見た瞬間、ブルーノにとって、父親はかつての父親とはなにかが変わってしまう。

自転車をめぐって、父親と息子の関係に決定的な変化をもたらしてしまったのがラストのシーンだと思うのです。

結局、親子はまた街の中に戻っていくしかない。最後の描きかたまで含めて、ずっしり重さを感じる作品です。

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