高畑勲監督作品には優れた作品が多いなか、私が1本を選ぶなら「火垂るの墓」です。
今さら定番の一本を、と思われるかもしれませんが、やはり代表作と言われるだけの、強さをもつ一本だと思います。
「火垂るの墓」
監督:高畑勲
出演:辰巳努/白石綾乃
公開年:1988年
製作国:日本
「火垂るの墓」は悲しいというよりも怖い作品である
子供のころに初めて「火垂るの墓」を見たときは、悲しい作品だと思っていました。
ただ、大人になってから改めて見た時にものすごいショックを受けたことを、今でもよく覚えています。それ以来、「火垂るの墓」はとてつもなく怖い作品となりました。
幼い兄と妹が飢えて死んでいくからかわいそう、といった感覚ではなくて、同じ状況においやられたときになすすべなく死んでいく様は、他人事に思えず、戦慄する内容と感じたからです。
「火垂るの墓」はながらく反戦映画として記憶され、尊ばれる作品になりました。その意見もわかります。
ただ、私にとっては反戦映画というよりも、現実の前で成す術なく無力なままで死んでいく人間のありさまの映画として、ずっと記憶に残っています。
「火垂るの墓」はなぜ怖いのか、その理由を考えてみたいと思います。
おばさんの冷たさについて
父親が軍人だというのに、軍国少年らしき性格ではない少年・清太。まだ親に甘えたい年齢だし、わがままも言う妹・節子。
空襲の後に親戚のおばさんの家に身を寄せるものの、ずいぶんと冷たい仕打ちを受けます。もともと清太たち軍人の一家に対してひがみでもあったのか、子供相手にやたら嫌味が多いおばさん。
ただ、このおばさんが特別冷たい人だったか、というとそうでもないとも思います。
食料も物資もなく、不安定な社会状況のなかで、さらに親戚の子供2人の世話をして・・・となると、気持ちに余裕や思いやりなどなくなってしまい、八つ当たりしても不思議ではないですよね。残念だけど、人間はそんなもんだ、という面もあるかと思います。
清太はその仕打ちや態度に耐えられず、荷物をまとめて家を出て行きます。おばさんを「冷たい人ね・・・」というのは楽ですが、だれでも同じようなもんだよ、似たような状況になったらああなる人のほうが多いかも、とも思うのです。
自分のグループから排除したい存在を厄介払いし、それをなんとも思わない、このような感覚は誰の中にも存在する一面です。とりわけおばさんを冷たい、とばかり言えないと思うのです。
清太と節子だけで生きるということ
4歳と14歳。これが節子と清太の年齢です。たった二人でままごとみたいな生活をして、周りの世界から隔絶され、それゆえに侵されないキラキラした小さな世界を作ります。
最後には力尽きて死んでいくわけですが、清太は最後まで節子の側にいて、食べ物を得て、なんとか生きようとします。
仮に自分が同じ状況になったとき、あそこまで妹の面倒を見られるだろうか、と考えると自信がないのです。
「妹がいないほうが自分は助かる」そう思って置き去りにしない、とはだれにも言えない、と思うのです。むろん、私もわかりません。
切羽詰まった状況下で、その人間の本性がむき出しになるのではないか。そう思うと、単に「かわいそう」という思いではなく、自分の弱さや醜さが突きつけられる気がして、怖いのです。
「火垂るの墓」のラストシーンについての考察
すでに死んだはずの兄と妹がラストシーンで出てきて、街の夜景を見つめているところで、映画は終わります。
見えているのは、ビルが立ち並ぶ現代の夜景でした。
これは、何を意味しているのでしょうか?
あの幼いままで死んだ兄と妹は、天国になど行っていないのです。
死んだ後にも、この世に残って現代の人間たちを見ている、ということです。
天国で安らかに・・・といった感じではなく、「今の人間は、過去の人たちから見られているよ」という暗示だと思うのですが、だとすればとてつもなく怖い気がします。
幼い兄と妹は死後もこの世に残っていて、自分のありさまを見られている、と思うと怖い発想です。
作品を通して、現実の自分たちの姿を照らしてくる、そんな強さをもった作品でもあると思うのです。
宮崎駿氏が「火垂るの墓」について次のように記しています。
兄の甲斐性なしを指摘する者がいるが、彼の意志は強固だ。その意志は生命を守るためではなく、妹の無垢なるものを守るために働いたのだ。
二人の最大の悲劇は、生命を失ったところにはない。コプトの修道士のように、魂の帰るべき天上を持たないところにある。あるいは、母親のように灰となって土に化していくこともできないところにある。
しかし、二人は幸福な道行きの瞬間の姿のまま、あそこにいる。兄にとって、妹はマリアなのだろうか。二人の絆だけで完結した世界に、もはや死の苦しみもなく、微笑みあい、漂っている。
「火垂るの墓」は反戦映画ではない。生命の尊さを訴えた映画でもない。帰るべき所のない死を描いた、恐ろしい映画なのだと思う。
宮崎駿/「出発点」/徳間書店/1996年/271ページ
帰るべき場所をもたないものの死。
実に恐ろしい表現だと思います。自分は決してああはなりません、とも言えず、ぞっとするような戦慄を覚えた1本です。
まとめ:短い人生のなかの怖さと美しさ
ただ、同時に生きているときの美しさも覚えておきたい、とも思います。兄と妹でいっしょにご飯を食べているときや、追いかけっこをしているときの表情の美しさ、無邪気さ。
はかなく短い人生であったけど、ムダな人生とはとても思えず、ひとつの作品のなかに描かれた美しさを長く覚えていたい、そう思います。
ラストカットの前にフラッシュバック的に描かれる節子のさまざまな姿は、躍動感にあふれています。
ごっこ遊びをする姿、針で刺して丸々と血の盛り上がる指を口に運ぶ姿、水に映った自分の姿とじゃんけんをする姿、どれにも生の美しさがあふれています。
そこに孤独の影はなく、兄妹ふたりだけの世界が、これ以上なく豊かなものとして浮かんできます。
「火垂るの墓」という作品には、怖さが横たわっています。しかし、その怖さと表裏一体に、生の豊かさが広がってもいるのです。
今月5日に逝去された高畑監督のご冥福をお祈りいたします。
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